研究概要
研究の全体像
本研究の大きな目標は、人文社会系研究には無縁と思われがちな数理科学を考古学分野に導入し、「数理先史学」という新たな学術領域を開拓、推進することにある。その可能性や有用性を探るケーススタディとして、新人(ホモ・サピエンス)のユーラシア拡散、旧人(ネアンデルタール人ら)との交替劇を数理科学でいかに説明できるかという課題をとりあげる。この課題に取り組むには新人・旧人間の生物学的差異のみならず、当時の歴史、気候など多様な条件を考慮した総合的な分析が不可欠である。
にもかかわらず、従来の研究は特定の遺跡や手法に基づく個別分析に集中しており、多面的要因を包括した総合的説明への取り組みが弱い。
それこそ、複雑な要因がからみあった事象を要約した統計量で説明する現象数理学の格好の課題となりうる。かつ、新人旧人交替劇の研究、さらに、文化進化の数理的解析は日本において国際的な蓄積のある分野でもある。その両者を融合する本研究をもって、新たな学術の実践例としたい(図1)。

研究の背景
本研究の着想は、新学術領域『パレオアジア』(2016-2020、領域代表:西秋)の成果にある。そこでは、新人がアジアに拡散した際に生じた文化の多様性に焦点を当て、考古学的、民族誌的データを収集し、データ駆動型の研究を展開した。その際、新人のアジア拡散にあたって生じた文化動態を旧人の絶滅と関連づけて説明するために、文化進化理論に基づく数理解析を行なったところ、その有効性を示す顕著な結果を得た(図2)。具体的には、新人の拡散と文化進化には、旧人との競合から交替において2つの段階が生じることを示す独創的な数理モデルを構築し、それが考古記録にみられる文化変容パタンと整合的であることを示しえた。
この経験をふまえ、現象数理学が旧人新人交替劇の解釈に有効であることはもちろん、その参画が考古学を始めとする人文社会系学術の新規性を開拓すると考え、本研究を提案するにいたった。
日本には第2次大戦後、西アジアを中心に継続してきたネアンデルタール人研究の強固な野外調査伝統がある。また、遺伝進化の数理解析においても国際的な研究伝統が育成され、それが近年では文化進化の数理解析に結びついている。これらの蓄積を最大限に活用し、融合研究を展開する。

研究の方法
新人の拡散や、その後の旧人の絶滅にいたる歴史的経緯を、文化進化理論の立場から数理科学的に論じる。着目するのは、新人のみが実現した多様な地域的文化発展である。それには、大陸規模データと定点観測データの双方を用いる。
大陸規模データについては、『パレオアジア』で構築したPaleoAsia DBが地球規模での数理分析を可能とする唯一の考古学データベースであり、それを最大限に活用する。民族誌や年代・古気候については「D-PLACE」や「LOVECLIM」などの既存データベースを活用してデータの拡充をはかる。そして、それら実測データと、新人拡散にともなう文化進化についての理論的推論を比較し、シミュレーションによって最重要の要因を見極める(図3)。
定点観測データ解析の中心は西アジアとする。それらは、アフリカからの新人拡散の起点となった地域であるだけでなく、関連する考古学資料が国内に蓄積されているからである。加えて、必要な新規データを入手するための野外調査許可も取得済みであるという準備状況も理由である(図4)。
これら二つのデータセットを現象数理学の強みの一つである、複雑な現象を少ない変数で説明しようとする数学的手法によって解析する。すなわち、本研究は、新人の拡散と旧人の絶滅についてさまざまな野外科学がこれまで個別に積み上げてきたデータや知識を、数理解析を用いた文化進化理論という新たな枠組みで解釈し直す試みである。


新人拡散にともない生じた文化進化理解への数学的貢献
人文社会系の問いは、たいへん複雑な要因がからみあうものがほとんどである。例えば、連日報道されるような国際関係、政治体制、経済停滞、少子高齢化等々。いずれにおいても、単純な解決策は、にわかには見いだせていない。おそらく、あまりにも多くの要因、視点などが関与するからであろう。加えて、社会自身の意思も関わるから、単純化した説明は困難であって行き詰まっているというのが現状かも知れない。
本研究は、そうした現代的な問いへの解を直接示すものではないが、先史時代における複雑な問題として新人旧人交替劇をとりあげる。19世紀のドイツで旧人ネアンデルタール人化石が見つかって以来、彼らと私たち新人との関係、なぜ彼らが絶滅したかにつき、さまざまな要因が吟味されてきた。古くから一般的な理解は、新人が「賢(=サピエンス)」こかったため革新的な文化や技術を生み出し、旧人らを駆逐したというものである(認知能力説)。ところが、新人が旧人と交雑(混血)していたことが古代ゲノム研究によって確定し、さらには、新人は30万年も前に出現していたにもかかわらず旧人と交替したのが4-5万年前でしかないことが近年、あきらかになっている。すなわち、古典的な「新人優越説」は深刻な見直しがせまられている。
このパラドックスを解くには新人旧人の生物学的な違いをさらに追求することが必要な一方、4-5万年前頃に起きた新人の文化動態を精査し、その時期に特段の技術進化が生じた要因やメカニズムの説明も同様に重要である。本研究が取り組むのは後者である。同じ生物学的能力をもつ現代集団どうしであっても他集団を征服したり絶滅させたりすることがあったことは、近現代にいたるまで周知である。生物学的能力差とは別の要因も常に考慮されねばならない。
旧人新人交替劇については、認知能力の違いだけでなく、身体的特性、食性、生態環境、背景の違いなどさまざまな要因が考察対象となる。それらは数理科学によって、どう説明できるのだろうか。これをケーススタディとして、考古学を核とした人文科学と数理科学とをあわせた数理先史学の可能性や課題を明らかにする。